海音寺潮五郎著 新装版「幕末動乱期の男たち」上・下が発売になった。
新装版に対しての「あとがき」を文芸評論家 末國善美氏が書いている。
一部を紹介する。
海音寺は一般的に歴史小説家と認識されているが、戦後は歴史小説よりも、「史伝」の復権に力を入れている。過去を舞台にした小説は、大きく時代小説と歴史小説に大別される。史実の隙間に大胆なフィクションを織り込むのが時代小説ならば、史実に忠実なのが歴史小説といえるだろう。だが歴史小説も、読者を楽しませるため、あるいは物語を盛り上げるために、架空の人物を登場させたり、過激な”演出”することは珍しくない。史伝は、フィクションを排し歴史そのものは再現するジャンルなのである。
史伝小説家の役割は、不確かな情報が混じっている資料を収集・分析し、より”真実”に近い歴史を作り上げることにある。
以上、あとがきの一文であるが、私が「海音寺潮五郎」の著書を好んで読んでいる大きな理由の一つでもある。
私などには、歴史の資料を読む機会はなかなか得られないし、たとえ そんな機会があったとしてもどれほど真実な資料であるか判別などできない。それよりも、なるべく真実を書き表わして教えてくれる書物を読んで、歴史を知りたいと思い読書を楽しんでいる。
歴史的に興味を引かれているのは「中国古典」、「紀元前のローマ」、「幕末・明治維新」、「終戦までの昭和」などである。
「「幕末動乱の男たち」は下巻から読み始めた。登場人物は「吉田松陰」、「山岡鉄舟」、「大久保利通」、「三刺客伝(田中新兵衛、岡田以蔵、河上彦斎)」である。
「吉田松陰」で気になった言葉は、
松陰が江戸に帰ってきて佐久間象山のところに挨拶に行った。また出てきたから、よろしくご指導を仰ぐというあいさつをして、(藩法を犯して脱藩したので)士籍をうばわれて浪人になったことを隠さずに語った。
象山はうなずきながら聞いて、
「過失のない人間はない。もしあるなら、それは沈香も炊かず屁もひらぬというような、平々凡々の者にきまっている。一節あるものは必ず過失のあるものだ。だから、過失のない人間は珍重するに足りない。過失を改める人間が貴いのだ。なお貴いのは、あらためた上に償って更に向上する人間だ。今日は国家多事である。向上の機会は山とある。勉励せよ。」と教えた。松陰の感激したことは言うまでもない。
松陰は孟子を愛読し、九歳ごろより 藩こう「明倫館」の兵学教授になったようだ。
その後 「松下村(しょうかそん)塾」を開き、幕末の多くの人たちがここで学ぶことになる。それほど 教え方も上手だったようだ。
幕末の人たちが活躍して、武家社会から 明治維新へと突き進んでのは興味があり、そして今日でも応用するべきことが多いことに気づく。
